知冬の暮らしの手帖

27歳の知冬(ともふゆ)が綴る日々のあれこれです。

エッセイ: ちょっとした贅沢とちょっとした余裕

Odai「ちょっとした贅沢」

 

お題:ちょっとした贅沢

 現在僕は新千歳空港のラウンジで飛行機を目の前にコーラを飲んでいる。空港のラウンジというのはちょっとした贅沢である。以前、ベトナムからカンボジアへ旅行した際、始めて本当の贅沢に位置するであろう、本物らしい「ラウンジ」を使用したことがある。そこではブッフェ食べ放題、新聞・雑誌読み放題、アルコール飲み放題、周りを見渡しても中流階級的な人はほぼおらず、というのもなんとそのラウンジはビジネスクラス以上の人だけが使えるらしいラウンジだったのだ。僕は当時、友人たちと4人でバックパッカーの旅をしていたのだが、期せずしてビジネスクラスに搭乗する異例のチャンスを得ていたのだ。なので、こうしたクレジットカードを持っているだけで入れる大学カフェのような名前だけの「ラウンジ」は、なんだか個人的には有り難みに欠けてしまう。

 そんなひねくれた話は置いておいて、ちょっとした贅沢の話である。僕にとってのちょっとした贅沢といえば、土曜日の朝である。土曜日の朝に起きて熱々のコーヒーやお茶を飲み、朝刊を広げる。土曜日は文芸欄が充実しており、様々な書評家の書評を目に出来る。そこで知り得たこれまで考えもしなかったような問題意識や概念に触れ、ちょっと良さそうな本があればそれを調べ、また名文があればそれをお気に入りのモレスキンにメモをする。こうした時間の使い方は大変に贅沢に思える。なんというか、僕にとってのちょっとした贅沢とは、「ちょっとした余裕」であるとも思える。普段の生活に余裕が欠けているからこそ実感できる贅沢なのかもしれない。
 
 また、誰かに手紙を書くこともまた贅沢な時間の使い方のように思える。心をまっさらにして、気を揉むことから解放された中で過ごす人生はとても豊かだ。かといって、全くそういったストレスフルな事象や、ふと息苦しく思える人間関係から解放されたところで、本当の孤独感に苛まれると意外とその人生は豊かではなくなる。ないものねだり、という安易な一言で片付ける気は無いのだが、プリキュアの「一難去ってまた一難ぶっちゃけありえない」という一節にはひどく共感せざるを得ない。まあ、生きているだけで良いのだと思う。

 また、自分の人生を生きていると思える時、人は贅沢を感じられるとも思う。僕は詳述しないが、これまで実に色々な人に自分の人生をオールを貸し出してしまっていたように思える時が多々ある。アドバイスに順応すぎたのか、自分の信念を貫くことを安易に放棄してしまっていたのか。とにかく、自分に甘かったのだ。

 だから、今年は、他者の正論そうな意見を出来るだけ受け流し、自分の頭で考え、そして自分の興味・関心の赴く方へ進んでいきたいと思う。その一助となるのがこのブログなのではないだろうか。村上春樹は以前「僕は書かないと考えられない」と話していた。そして、僕もその一節にはプリキュア同様本当に共感する。自分の思考を冷静に自分のものにとどめておくために、このブログというコウイ(行為・好意)を続けていこうと思う。でも、これまでのように変な更新に対する義務感などは気にせず、ひたすらに僕の雑記帳、暮しの手帖として色々なことを考えるために綴っていきたい。

 だから、なんというか、これまで僕はブログを作るたびに友人に教えていったのだが、今回は誰にも教えないでみようかなあ、なんて。まあ、そこら辺は置いておきます。

 今回は期せずしてとりとめのない記事となってしまいました。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。