知冬の暮らしの手帖

27歳の知冬(ともふゆ)が綴る日々のあれこれです。

エッセイ: 英字新聞と日本の新聞どっちを取ろうか

英字新聞を取るべきか、日本語の新聞を取るべきか

 僕は新聞が割と好きだ。毎朝届くとまるで誰かが毎日僕に手紙を送ってくれるような気持ちになるし、とりあえず自分は社会とつながっている気もするから気分が良い。大学入学時にテレビと縁を切って以来、なんとなく新聞はとり続けている。やはり、テレビでも新聞でも、向こう(社会)とある種の関係は持っておきたいと思ってしまう僕は人間らしいのだろうか。

 日経と産経以外はほとんど取ってみた。その結果、基本的には毎日新聞が好きだけど、なんとなくもうちょっとメジャー感が欲しくなったのと、鷲田清一さんの「折々のことば」が大好きすぎたので、いまは朝日新聞を購読している。そして、これまで適当にとり続けているジャパン・タイムスも併せて購読しているのだ。正直、なかなか全てを丁寧に読むことは土曜日でも難しい。でも、なんとなく、両紙の購読をやめられないのだ。

 仮に朝日新聞をやめて英字新聞のみにしたらどうか。僕の住んでいる地域には2日遅れの英字新聞が届くので、内容は遅いし何より日本語ではないので情報は正確性は低減すると言わざるを得ない。アメリカで朝日新聞のみを読むアメリカ人は日本語学者を除いてほぼいないだろうし。せっかく歴とした母国語があるのだから、自信を持って日本語で読みたい気持ちはあるのである。

 他方、英字新聞をやめて朝日新聞だけにしたとする。まあ、日頃の生活的には何の問題もない。しかし、洋画を字幕なしで見たい自分にとって、英語学習に関する不断の努力はかかせない。ウェブ版で良いのではと言われれば、確かにそうなのだろうが、やはり新聞的に紙で読みたい自分がいる。結構読めないと貯まってしまう英字新聞。その山を見てかなりの罪悪感に駆られてしまう。でも、止めたら止めたでまたすぐするとすぐ取り始めてしまう自分がいる。内容も英字新聞だけあって日本の新聞では書かれないようなことが沢山書いてある。
 このような紆余曲折を経て、結局僕は日英両紙を購読している。ある日斎藤孝先生が「新聞購読は民主主義への投資である」みたいなことを言っていたと思うので、まあそれを考えると納得出来る気もしないでもないのである。

 つまり、僕はこう考えている。もっとこの新聞購読を活用したいと思っているのだ。仕事に活かすなり、将来に活かすなり。気になった記事を毎日一つ写経するとか?誰か良いアイデアを持っていたら是非教えて欲しいと思ってしまう。というか、それを自分で考える段に来ているのだから、いよいよ僕も高校生の時分とは違っているわけである。

 毎日続いているものは、今のところレアジョブのオンライン英会話レッスンと青汁を飲むことくらいだろうか。もっと腰を据えて勉強したいと思いつつ、何をどのように勉強すべきかもよく分かっておらず、もしかしたらいまの僕は目標を見失っているのかもしれない。

 先日『フォードVS.フェラーリ』を見てきたのだけど、そんなシーンがあった。元ル・マンで勝利した天才レーサーがレーサー職を引退して車の修理工場を始めて「あいつも落ちぶれたな」なんて裏でささやかれているシーン。でも、その後フォードから引き抜きがあり、まあリスキーだけどとっても面白い人生へと返り咲くのだけれど、自分にとってあのシーンは、自意識過剰かもしれないけど、ちょっと見過ごせなかった。自分もいま、こんな感じなのかなあと。昔はもっとギラギラしていた気がするんですけどね。

 とりあえず、新聞でも読んで考えます。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

エッセイ: 私の勉強法が見つからなかった自分の受験勉強の思い出

 

 現在27歳にもなると、センター試験の新聞発表を見ても、当時こんな難問と向き合っていたのか、なんて思ってしまう。高校時代は当たり前に思えた、むしろ優しいとすら考えられていたセンター試験の問題は、玉結びの仕方すら忘れかけたいまの僕にとっては科挙のように見えてしまう。

 年を重ねるごとに、自分の好きな科目が選別化されていく気がする。例えば僕は高校時代、政治経済が一番の得意科目だったけれど、なんでだったんだろう。英語はそれなりに得意だけど、国語は現代文しか読めない。古文は少しは読めるのかもしれないけれど、漢文は悪いけど外国語の試験に入れるべきだと僕は思っている。

 そんなことより私の勉強法の話である。どうも僕のような勉強ベタは、勉強法の本ばかり読みふけって肝心の勉強を限りなく先延ばしにする傾向があった気がする。でも、そんな僕もある日を境に本気で勉強するようになったのだ。

 それまでの僕は部活と勉強の両立なんて全く出来ず、どちらも中途半端という絶望的な高校時代を送っていた。入っている部活もそれほど好きではなくノリで選んでしまったもの。行きたい大学も見当たらずそれなりのMARCHレベルを目指せと言われてもなんとなく東大に行けたら良いなあと思いつつそこまで努力をする気もあまり無かった気がしている。

 そんな僕に日の目を見せてくれたのは当時通っていた塾の塾長だった。いよいよ進路が全く分からなかった僕は高校の先生方に面談を申し込みカウンセリングをしていただいた。だけれど全く僕の進路は見いだされず、担任の先生から「お笑い芸人とか目指さないの?」と半分真顔で言われる次第であった。確かに、目指す価値はあったかもしれないけれど、当時は本気で考えられなかった。

 そんなこんなで半分泣きながらすがった塾長との面談で、僕は素直に言ってみた。

「自分では自分のことが頭良いと思ってるんです。だけど、勉強が下手なせいで全然成績は伸びず中の下だし、周りは分布相応の大学に行けと言うし。でも、自分は本当の力を出せば、もっともっと勉強出来るはずなんです」

 すると塾長は僕の得意科目や進路希望を丁寧にカウンセリングしてくれて、蛍雪時代の分厚い「全国大学内容案内」から数校かピックアップして僕にその可能性を教えてくれた。そして、ふとこう聞かれたのだ。

「知冬くん、早稲田、目指してみないかい?」 

 自分には雲の上の大学だと思っていた。そんな大学を自分が目指して良い訳ないと思っていた。だけど、塾長は合格レベルまで僕を伸ばす戦略を丁寧かつ大まかに説明してくださった。そして、いまの僕の熱い気持ちを絶やさず、早稲田を第一志望に据える覚悟を決めたのだ。

 あのときの覚悟の決まりっぷりは、個人的にも映画化に値するほどの大英断だったと思う。なぜって、「早稲田」の一言で、僕の身体の様々な部位がこれまでのしがらみを急速に溶かし、解放していくのを実感したからだ。親にも何て言えば良いか分からない。先生にも、この時期(3年生の夏頃)から志望校を下げるならまだしも、早稲田に上げるのは前代未聞のことだった。だけど、僕はその後親に勘当されかけても、担任に仰天されても、やはり貫いた。だって、本当に、心から目指したいと思える大学を見つけたからだ。

 そして、そこから怒濤の僕の受験勉強が始まった。塾長は僕に参考書と課題を毎週提供してくれた。メールで指示をくれることも多々あった。基本的には問題集を3周するというやり方を実践してみて、自分がこれまでいかに本当の勉強をしていなかったかを理解した。その時思ったことは、僕は本当にやる意義を見いだして、正しい努力の仕方を見つけた時、本当に強い力を発揮することが出来るのだ、と。

 E判定で始まった僕は、受験最後の模試でC判定までこぎ着けた。ここから、本当にミラクルがあるのかもしれない。政治経済の問題集で間違った問題の解説を全文ノートに書き写すという勉強法では、僕は12冊のノートを書き上げた(先生からは10冊作ったら合格すると言われた)。始めて政治経済の模試の順位で校内1位を取った。あのときの感動をいまでも覚えている。確かに辛かった。ペンだこだらけになった。でも、同時に、これをやれば良いというのが分かって勉強しているので、実は楽しかった。

 そうして迎えた早稲田受験。結果は、不合格だった。ミラクルは起きなかった。その日は人生で2度とないくらい、朝から晩まで泣いていた。自分にこんなに涙が流せるのか?と思っては泣いた。そう簡単に切り替えられなかった。だって、それまでの約半年、毎日毎秒早稲田のことだけを考えてやってきていたのだ。塾長も、結果を重く受け止めているようだった。

 *

 それから僕は滑り止めに受けたMARCHレベルの大学に進学した。最初はこんな大学と思っていたけど、そこから人生を変えるような新たな出会いがあり、どんな大学でも素晴らしい学友や先生は必ずいたし、学べることはあった。その後僕は本当の意味での学問に目覚め、旧帝大の大学院に進学することとなる。同輩には早稲田・慶応以上の大学出身者しかいなかった。そして、大学院を卒業し、僕の人生の一つの大きな章が一つ終わった気がした。
 
 いまになって、当時の僕が早稲田に落ちたことは随分納得している。あんなに急ピッチな仕上げではやはり無理だし、そこで落としてくれたことに今では感謝すらしている。あの経験はある種僕の人生の初めての大きな挫折となったけれど、本当に学べたことは多かった。
なにより、貴重な高校時代、期間は短かったかもしれないけれど、あれだけ自分と向き合う機会をくれた塾長には一生感謝するしかない。そして、僕はそんな塾長のように、希望の無い人間に人生を変えるような希望を与える人になりたいと今でも思っている。

 学ぶことは、変わること。受験勉強の時代を終えた僕は、ある種燃え尽きてしまっているのかもしれない。でも、心のどこかで、また新たな、高校時代にとっての僕の「早稲田」のようなものを探している気がする。毎日それのことばかり考えてしまうような、その夢が実現したことを考えると思わず小躍りしてしまうような、そんな夢を探している。本当の夢とそれを目指す価値を教えてくれた塾長、本当にありがとうございました。その夢を目指す行為が「学ぶ」ということなのですね。

 最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

はてなブログ特別お題キャンペーン #学び応援WEEK

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by ギノ

剣道日記: 久しぶりの剣道

剣道日記 1月17日(金)

 昨日は久しぶりの剣道稽古だった。久々のブランクのある中、本来ならば昨日から再開すべきところを、プロフェッショナルの見逃し配信を見出してからもっとそれらが見たくなり、結果的に6時間くらいぶっ続けで様々な配信を見てしまい、自分の弱い心が露呈してしまった気がしている。
 というのも、「剣道に行かねば」「英語を勉強せねば」という「…べき」的思考がありつつもなんとなくそれをペンディングしてしまい、「それが出来なかった自分ってめっちゃだめな奴やん…」と悶々鬱々ああああもう全部嫌だ…という幻滅思考に入ってしまう傾向があった。しかし先日に読んだ『自己肯定感の教科書』によると、そんな自分をとにかく認め、さらには丸をあげよう、というのである。そんな甘々な日々を送って良いのかしらんと思いつつ、きっとそういう好意を続けることによって、自分が本当にやりたいことが見つかっていくのかなあとも思っている次第なのである。
 さて、剣道の話である。金曜日も結局「やっぱり今日はやめようかな」と少しは思ったものなのだが、今日はとりあえず行ってみようと思って行ってみたらまあ本当に楽しかった。一つ一つ丁寧に教えてくださる先生方の姿勢にも感化されたし、純粋に稽古を重ねるたびに僅かながら成長していく自分がとても楽しいのである。
 こういうことって、僕にとっては色々なことに言える気がして、当てはまる気がしてなりません。
 学校の授業の準備にだってそうです。あれほど色々な準備を構想し、こんなこと、あんなことをやってみたいと、まるで四次元ポケットの中を空想するほどに興奮していた時があったかと思えば、なんだか結局冬休み最終日にまだ宿題開いてすらいない状態の自分が居たり。そんな僕につける薬なんてあるのでしょうか。
 きっと、僕がすべきことって、ラストスパート型からロケットスタート型への転向。または、自分で決めたやりたいことのスケジューリングの見直し、またはその両方が必要なのかなあと思われる。
 僕がよく陥るパターンの一つとしては、例えば映画鑑賞や読書の誘惑に駆られてしまうことである。別にそれが駄目かと聞かれれば決してそうでも無い気もしているのだけど、やはり結局それらを優先した結果、授業準備は何も構想ゼロ(もちろん理想が高すぎるのかも)→幻滅というパターンはこれまで何度も経験しているのだから、僕も今年はいい加減変わりたいと思っているのであります。

 さて、剣道の話。

 とりあえず、一打ち一打ちをお腹の丹田と接続して「面ええん(パシン!+足のパシン!)!」と決めることが重要であるということ。竹刀の先がしなるように、その一打ちの落としどころを意識して一つ一つの動作を完了すること。そういうことが大切とアドバイスをいただいた。
 正直、その場で書き残したいことが山々なほど、先生方の毎回のアドバイスは本当に的確なものばかりで驚かされてしまう。内田樹師匠が以前著書の中で、学術的な能力の涵養よりも武術的な能力の涵養の方がよっぽどやりやすい。なぜならそれは身体的なものだから。といった話をしていたことを思い出す。

 とりあえず、行くのが億劫でも、僕は剣道に行こう。他人に優しく、自分に厳しくってね。

本の感想:知里幸恵『アイヌ神謡集』

 

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1978/08/16
  • メディア: 文庫
 

 

 最近アイヌ文化への関心が高まっている北海道。もちろん、「ゴールデン・カムイ」のヒットや、来年北海道白老町に誕生する民族共生象徴空間「ウポポイ」などがそのある種「ブーム」を牽引しているらしいが、なんとなく、みんな急にそんなアイヌ文化に関心持ち始めてどうしたの?と冷静にツッコミを入れたくなるいち北海道民で私はある(道内の色々な施設やCMでファンタジックかつエキゾチックなイメージとしてアイヌ文化が挿入されている気がする)。

 

 でも、どんな文脈であれ、過去に埋没されかけた貴重な文化が広く再び日の目を見るのは良いことだなあと思います。でも、本格的にアイヌ文化について学んでみる勇気や気力もいささか欠ける僕にとって何か良い本は無いかなあと思っていたら、先日読んでいた『北海タイムス物語』にて、本書が登場していた。主人公がやつれた時に通うカフェのマスターが、ちょっと心動かされるエピソードと共に本書を紹介してくれるのだ。

 

 そんな文脈から発見した本書のせいか、かなり期待して読み始めてしまった。千里幸恵さんが命を削って書かれた本書。ページ構成は左ページがアイヌ語のローマ字表記で、右側が日本語訳となっていた。動物としての神の物語。その想像力はなんだか忘れかけた、ゼルダの伝説の世界のような、そんな印象を僕に与えた。正直、さっと読む本ではなく、時間をかけて身に染みてくる一冊なのだと思う。

 

 私たち現代人が忘れかけてしまった身近な神話が、ここには残されている。なかなか難しい言い回しやストーリーが頻出するため読みにくさは正直否めないけど、知里さんの序文を読むだけでも一読の価値はあると思う。

 

 

 

 

 

 

エッセイ: 引きこもりと人手不足について思うこと

Odai「最近気になったニュース」

 

なんだか最近はどこの業界でも人手不足らしい。確かに、これまでも少子高齢化などの理由で薄々と感じていたが、最近人手不足を理由になじみのお店や企業が衰退していくことがいよいよ多くなり、なんだか他人事とは到底思えない事態になってきている気がします。

 

でも、そんな話と同時に、いまの日本には推定100万人の引きこもりが居るとNHKが報じており、素直に驚いてしまった。人手不足のいまの日本で、小国というかそれなりの規模の国民程度の人が引きこもってしまっている。もちろん引きこもってしまう人にも同情してしまうけど、日本とは大変な国なのだなあと思ってしまった。

 

100万人の人全員が不幸ではないとは思うけど、もし仮にその大部分の人たちが、家で、社会の誰からも必要とされないと感じで、自己肯定感の欠片もなく生きているとしたら、日本はもっとそういう人たちにチャンスを与えてほしいと素直に思ってしまう。と同時に、100万人もの人を引きこもらせてしまう社会ってどんな社会?とも思ってしまう。

 

引きこもりの人だけで国を作ったら、どんな国になるんだろう。引きこもりの人が思う理想の国。いつか行ってみたいと思うのは、僕だけでしょうか。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

エッセイ:20歳の頃の僕に言いたいこと

今週のお題「二十歳」

 

 20歳って、いま思い返すと「クソガキ」だったと思います。あの頃はまだまだ知らないことだらけだったのに、なぜか何でも知ったかぶって分かったつもりになっていたと思います。今でも忘れられないのは、誕生日ケーキのろうそくに火をつけるためのチャッカマンで初めてタバコに火をつけてめちゃくちゃむせ返ったこと。初めてコンビニでタバコやお酒を買う時は、国道沿いで立ち小便をするくらいなスリルがあった気がしています。

 

 いま僕は27歳ですが、あの頃の自分って、どうだったんですかね。僕は20歳の頃からつけ始めた手帳があります。モレスキンの黒い手帳なのですが、これに気になったことやその日出会った良い言葉などをメモっていたのです。久しぶりに当時の手帳をペラペラめくっていたら、当時読んでいたららしい林真理子さんの『野心のススメ』の言葉が綴られていました。

 

せこい人には、せこい人生が待っているのです。

 

 

 

若いうちの惨めな思いは、買ってでも味わいなさい。

 

 

 

なんといっても私のモットーは、「やってしまったことの後悔は日々小さくなるが、やらなかったことの後悔は日々大きくなる」です。

 

 

 

どのように生きていくかということを真剣に考えるのは、充実した人生を送るために不可欠なこと。

 

 

 

 などなど。こういう言葉に飢えていた20歳だったなあと自分でも記憶しています。また、当時の自分は学歴を怖がっていました。僕は当時以下のようなことを書いていました。

 

 学歴社会で怖いと思うことは、自分で自分の能力を悟ってしまう、限界を作ってしまうことだと思う。本当はそんな目に見えない空気に勝手に押し殺されることはないはず。でも、〇〇大学(有名大学)ではないから、自分はこの仕事に就けないのではないか。〇〇を成し遂げることなんて不可能なんじゃないか、なんて思ってしまう。ではどうするか、そんなものはただの都市伝説だとゴミ箱にすて、オレは俺で自分の理想を目指すべきだと僕は思う。ただやらない言い訳はしない。

 

 

 

 なんて偉そうに書いていました。確かに、そうかもしれません。でも、学歴コンプレックスを持っているなら、学歴を書き換える努力をするか、学歴を気にせず打ち込めるものを見つけて打ち込み始めたら良いのだろうなあ、なんていまの僕は思っています。

 

 とにもかくにも、20歳になったみなさんおめでとうございます。今しか読めないような本が沢山あると思います。是非背伸びした読書を、どっぷりしてみてください。27歳の僕は、当時想像できなかったけど、やっぱり社会人になると学生時代の頃のようにどっぷりとした読書は難しい気がしています。でも、言い訳しないように、僕も頑張ってどっぷり読書を諦めません。良い人生を!

 

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

 

野心のすすめ (講談社現代新書)

野心のすすめ (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

本の感想:夏川草介『本を守ろうとする猫の話』ーいまどきの本事情を考える手がかりとなる一冊

 

本を守ろうとする猫の話

本を守ろうとする猫の話

 

  

 こちらの本も友人からプレゼントされた一冊。訳あり本好き高校生が猫と一緒に色々な本にまつわる事件を解決する話です。その本にまつわる事件というのが非常に比喩的というか、現代の本事情を象徴的に扱っているのです。例えば、薄っぺらく短期的な収益しか目論んでいない本ばかり売るおじさんや、本当の一冊のあらすじ的なものだけで読者を読ませようとするおじさん、などです(おばさんも出てきます)。

 

 寓話的というか、なんというか、良くも悪くもすぐに読めてしまう一冊でした。読んでいる途中、もしかしてこの本自体が寓話に登場してくるああいう類の本なのでは、と思ってしまいそうになりましたが、最終部ではそれなりにストーリーが展開されておりました。

 

 なんというか、本を語ることって難しいですよね。その人がこれまでどのくらい本を読んできている人なのかにもよりますし、やっぱり普段本を読まない人の発言はどこかうすっぺらそうだし。本を元に人を区別する気もないのですが、結果的にこの物語がみんな本読もうぜ、という感じで終わっていたのには大変に好感が持てました。

 

 かくいう自分も本が大嫌いだったので、いつからこんな偉そうに本の感想を書くようになったのか本当に不思議なのですが、それくらい本には良くも悪くも人を成長させる力があると、これは僕が身を以て実感しています。

 

 本を読んだり、文章を書いたりしている人に限って、どんどん内向的になってしまい、あまり本を読まない人に本を勧めるのが下手かつ後手になりがちです。でも、僕たちはそこを諦めてはいけないのだろうなあと、そういう読書が苦手そうな人にこそ響く一冊なのかなあと思いました。

 

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。